権限移譲とマネジメントロスについて

ある組織がある。リーダーがいてメンバーがいる。

リーダーが部下に権限移譲をすることは、一般的によしとされる。

ワーク・ルールズ! ―君の生き方とリーダーシップを変える

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ここにも書いてあった。プロセスを細かく管理することで、管理自体が目的になってしまうと。

しかし、それと管理の放棄、マネジメントロスとの境目はどこにあるのか。
単純に言ってしまえば、うまく組織が回っているかどうかという結果から判断するしかないのかもしれない。
もしくは個々のメンバーの特性によるのかも。
つまり、管理を必要とするメンバーであれば、管理を強め、自由をうまく行使できるメンバーならばより幅広く権限移譲を行う。
であると公正性が保てるのかどうか。個別の対応ができるのだろうか。
そもそも、管理が必要とする人員というのは、パフォーマンスが低いのかもしれない。
あまり管理されなくても結果が出せるならば、リーダーの負担も減るし、メンバーもストレスなく仕事に取り組むことができる。

“女性に乱暴”の罪 実刑取り消し無罪判決のニュースについて

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160112/k10010368951000.html

検察の体たらく。
裁判で判決が覆ったから、少しは被告人が報われるかもしれないが、失った社会的地位や時間、周囲との信頼関係は取り戻せない。お詫びして済むものでも到底ない。
この話の場合、誰が見ても、検察が意図的に事実を曲げようとしたとしか思えない。

果たして何のために。検察がターゲットにした被告人が犯人だと決めつけ、主張が通る。そうなれば勝利とされる。その勝利を得たいためだけ。単に自己満足を得ようとしているだけ。
自分たちが何のために仕事をしているのか、役割は何なのかわかっていない。

検察は自らの過ちに対して、どのように責任を取るのか。裁判で主張が通らなかったことは「失敗」とみなされるのか。
彼らはどのように評価されるのか。事実を暴くのが仕事ならば、その事実が検察の主張と違っていても評価されるべき。それが組織として成り立っていないのだろう。

ある会社を改革するには(第一弾)

情報を共有・開示する。伝達・命令系統を機能させるリーダーから各メンバーへ。

ライター・制作部隊も同様。「一緒に戦う同士である」という意識を醸成させなければならない。
それぞれに関係があるという意味付けも必要。「自分には関係ない」と思われるとモチベーションの向上につながらない。

管理機能を強化する。
各メンバーの時間の使い方を一日ごとに確認する。これまでの取り組みはできているのか。

総務担当社員を採用する。メンバーを本来の業務に集中させる。

朝令暮改をしない、不易の活動を一つつくる。継続するということが苦手すぎるため。
決まったことに対して徹底して守ることができていない。

会議は短く。各メンバーが本当に意識をもって臨んでいるか。

早期教育について

以下、走り書き、メモ。

『幼児教育の経済学』で言われるように、幼児期に適切な教育を受けさせたほうが効果が高い。
ただその「適切な教育」が何なのか、よくわからない。
教育の効果は、もっている資質と環境などさまざまな要因が絡んでくる。何が決め手になるのか分かっていない。
早期教育は親の自己満足である気がするけれど、そうでないかもしれない。
後になってみないとわからないけれど何かしなければならないのではないかという不安に駆られる。だからやらせるという側面が強いのではないか。
とりあえず今スイミングを習わせているのは、何か一つのことをやり続けて得意なことをつくっておいてほしいから。スイミングならば体力もつくし、長男の好きな魚や海につながる面も多い。
と思いつつもこれも後付けかもしれない。何かさせたいという気持ちのほうが強いのかもしれない。教育とは、親の価値観や考え方や生き方を反映したもの。子どもが介在してぼやかされているけれど。
しかしその教育が子どものなかでどのように生きるか、影響するかは何年も何十年もやってみなければわからない。
そんなに悩むことではないのかもしれない。何かをやらせて劇的に人生が変わるということはなさそう。しかしじわじわと人生に影響する。万事じわじわであるので。

何が知りたいのか。科学的に解明されていない部分が多いから、とりあえずケースを集めてそこから何らかの法則を導きたい。それがあるならば。
みんながいいと思っていることを知りたい。

大切にしたいのは好奇心と自己肯定感の醸成。
何でもやってみたい、楽しそうと思える気持ち、やってみたらできるのではないかと思える気持ち。習い事に頼らずともできるのかもしれない。

群れることとそれへの反発

特に女性は、同性の仲間をつくろうとする傾向が強い。井戸端会議、給湯室でのおしゃべり、ファミレスでのおしゃべりなど。共感し、理解し合い、仲間をつくる。味方をつくる。

それを頭では否定しつつも、時にその仲間の存在に憧れを持ってしまう。自分が独りなのではないか、という不安に駆られて。

結局その不安は取るに足らないもの。表面的な、本質とは異なる寂しさは取るに足りないと思っていながら気にしてしまう。そんな自分が嫌になる。

群れによって何が得たいのか。自分に対する自信か、それとも寂しさを紛らわせたいだけなのか。寂しさってなんだ。一人ぼっちだという感覚。嫌われているのではないかという感覚。自信が持てないこと。このままでいいのだろうかという不安。仲間=賛同してくれる人、というよりそばにいてくれる人という感覚なのかもしれない。

でも一緒にいても、話をしていても、結局仲間ではないかもしれない。気を使い、話を合わせる。うなずく、共感する。それが面倒。そんな風な見せかけの仲間なんて不要だと思い、結局「ひとり」でいる。

でも1人かどうかは、そんな見せかけの、うわべだけで決まるのではない。

思考と言葉

取材して書くということは、その人の話していることをまとめることではない。

そもそも伝えたいことを100%そのまま伝えられる人なんてあまりいない。
話してしまった後に、言いたいことはああではなかった、もっとよい表現があったのではないかと悩むのが常。
思考と発した言葉との関係は100:1くらいではないだろうか。

言葉にするから思考になる、思考として形作られるという面もあるけれど。

だから、取材するとは、その人の言葉はもちろんだけれど、しぐさや間合いや声のトーンなどすべてを加味して全体を受け止めることではないかと思っている。
できるだけたくさん受け止めて、広報担当者として言葉にしたいこと、会社に置かれている状況などを考えて、その人の言葉としてまとめる。

できるだけたくさん受け止めるには、下準備が必要。その人に合った皿を用意しておくのだ。皿の形が違っていれば、聞いていても零れ落ちてしまう。

下準備とは、できるだけインプットしておくということ。そして自分の心構え。質問の流れを考え、その時の場を設計する。

【本】『建築家、走る』隈研吾

先日取材でお会いできた隈さんの本。直接取材ができないのが残念だった。

建築家、走る (新潮文庫)

建築家、走る (新潮文庫)

その短い時間でも感じたことだが、やはり考えかたのスケールが違う。
自分のなかの思考の枠組みがぐらぐらとした気がした。

毎日知らない国から知らない国へと移動しているという距離感覚的なものもそうだし、
そもそも建築という大きなものを扱っているからでもあるだろう。

こんなに著名な人がここまで赤裸々に語られたものも珍しいのではないか。
過去の考え方、挫折の経験、

ぐちゃぐちゃといろんな思いや悩みが吐露されていたが、人間とはそのようなどろどろした、矛盾を抱えた存在なのだろう。
それがきちんと言葉で表現されていることが価値あることだと思った。