認知症の第一人者が認知症になったら

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せっかく録画をしていたのに、配偶者に消されてしまったため、
オンデマンドで見た。

絶望も見えたし、希望も見えた。

認知症になれているとはいえ、状況や自分の心情の説明はより具体的でスペシフィックであり、わかりやすい。

1つはこのセリフ(日記の中の一文だったかもしれない)

「一生懸命、一生懸命やってきた結果、こうなった」

 第一人者として邁進してきた人でも、等しく認知症にはなるのだ。
仕事という責任感をともなう営みを続けていれば、考え続ける機会がおおいほうが
かかりにくいのではないかという希望的な、安易な観測を持っていたがそうではない。
たとえ日記をつけ続けていても、
たとえ講演会活動など、緊張感のある時間を過ごしていたとしても。
だれもが可能性がある。
そういう意味で、平等にやってくるのだな。社会的なというより生物的なというか。

 

こちらも。(まったく同じ表現ではなかったかもしれないが、)

認知症とは余計なものをそぎ落としてくれる

  当然良い面ばかりではなく失われるものも大きいだろうが、娘さんが言っていた、「感情表現が豊かであった、人を喜ばせようとするところは変わらない」というのもつながる。その人の人格、その人らしさが失われるわけではないということだ。
 でも、まりさんが「そう思えるようになった」と付け加えていた部分もポイントだと思う。たぶん、周りはその人の「変化」(前できていたのにできなくなったこと、マイナス面)にとらわれがち。周りがどう向き合っていけるか。
 まりさんはまた、「せっかくそれまでの人生でうまくいってきたのに、医師として間違ったことを言ってしまうかもしれない、尊厳を失ってしまうことになるかもしれない」(というようなこと)も心配していた。そうであっても、先生の意思を、人生を尊重したんだろう。

 

このようなテレビ取材に応じてくれて本当にありがたいと思う。
認知症について知り、考え、そして人生をどのように歩むか機会を与えてくれる。
研究を世に貢献する大きな一つのかたち。