なぜつらいニュースを見なければならないのか
九州の豪雨被害については、現地の映像を見ているだけで本当に胸が痛い。つらい。
「これまでに経験したことがないような雨」が毎年どこかで起こっている。
それを前提に生きていかなければ時代・土地なのだ。
今日のダーリンの、結局大雨の量というより、川と地形が関係しているのだという話とか、
Chikirinの人口の多いところで被害が出てきている、つまり土地の安いところ=災害が起きやすいエリアに家屋が立つようになっているのでは、という話は興味深い。
さて本題。
小学3年生の長男が、熊本県の豪雨被害の映像をニュースで見ながら「これ昨日の夜もやってたよね」とやや怪訝そうに言い、それに立ち止まって考えた。
確かに昨日見た映像なのだが、なぜ繰り返し見なければならないのか。
(NHKとして、繰り返し伝えなければ、という意図があったかはわからない。
たまたまルーティンとして繰り返されただけの可能性が高い)
他の地域のつらいニュース、悲しいニュースも知っておかなければならないのではないかと思った。ただしくは別に知っておかなければならないということでもない。
極論、他の地域で起こっていることだから関係ないとする人がいるとする。いまこの瞬間はそうかもしれないが、完全に独立して経済や社会が成り立っているところはほとんどない。人やモノのつながりがあり、支えあっている。
何キロ先まで関係ないのか、何キロ先なら関係あるのか。突き詰めると、何キロ先であってもどこかで関係しているはず。
何よりも、大前提のメッセージとしては、一人ひとりの命がかけがえのないものであり、最も大切なものなんだ、ということ。
死者20人であっても2万人であっても、一人の命×人数。
そんな一人ひとりの代えの利かない命や生活が脅かされているから報じる価値がある。メディアは報じなければならない。
報道しなければ、その大切さを否定したことになる。
もう一つはつながり。
支えあっているから、つながっているから、遠い地域で起こったことが自分に関係あるかもしれない。関係するかもしれないから知っておこう、というのがわかりやすい解なのかもしれない。
例えばモノの生産や物流は国内のネットワークで成り立っている。その影響があるかもしれない。トヨタの工場が被害を受けたというニュースもあった。
この事態を受けて自分が何を考え行動するか、今後の社会をつくっていくうえでのヒントになる。
同じようなことがまた自分にも起きるかもしれないという意味で知見が得られるだろうし、自分がどんな支援・助けができるかも考えられる。
でももっと根源的なものとも言えそう。
直接的に自分に関係することがなくても、
同じ社会に住んでいるから。そこで何がおき、その土地の人がどんな状況になっているか、どんな様子でいるか、何を感じ考えたか。単純に知りたい。
何が起きているのか、いまどんな世の中なのか。
でも知りたくない人もいるかもしれない。それはそれでもいいのかな。いいのかも。
自分の身の回りのことで精いっぱいだよという人もいる。それはそれでいいのだ。
ただ、社会に目を向けて何か手を差し伸べられるかもしれない、新しいビジネスのヒントになるかもしれない、今後の生き方の示唆を得られるかもしれない、知りたい、そんな人のためにニュースはあるのだろう。
情報を得たいと思う人がいるかもしれないから、常にオープンであるべきなのだ。
関心を寄せあう社会のほうがいいなと思う。
だって支えあって生きているから。どこかで少しずつ支え、支えられている。
メルカリの人事制度の記事を読んで
印象的だった箇所
・採用一辺倒ではなく「育成」に強い会社になる。
自分の中で、人材の影響度を考えるうえで採用は育成に勝ると考えていたので、
意外だった。しかしこの記事にもあるように、採用でかなりレベルの高い層が来ているので、採用採用といわなくてもいいのかも。いや違うか、「成長できる場」であるからこそ、採用力も高まる。プラスのスパイラルがある。
・フィードバックはギフト
いい言葉だ。印象がかなり違う。
・メルカリではそれぞれの職位に合わせて何が求められているのかを整理し文章化しました。その到達度に応じて、個人のパフォーマンスを1〜5段階で評価するような仕組みを導入しました
ほおおお。人材がナショナリティーも含めて多様化しているからこそ、あいまいなフィードバックじゃ伝わらないんだと。そしてその5段階評価もギフトなんだ。
・人と組織がWinWin
その通りっすね。
これが当社にすべて当てはまるかというとそうではない。
クリエイティブの度合いとか、規模とか。
ただ、成長への貪欲さみたいなのはマネしていくべきかな。
認知症の第一人者が認知症になったら
せっかく録画をしていたのに、配偶者に消されてしまったため、
オンデマンドで見た。
絶望も見えたし、希望も見えた。
認知症になれているとはいえ、状況や自分の心情の説明はより具体的でスペシフィックであり、わかりやすい。
1つはこのセリフ(日記の中の一文だったかもしれない)
「一生懸命、一生懸命やってきた結果、こうなった」
第一人者として邁進してきた人でも、等しく認知症にはなるのだ。
仕事という責任感をともなう営みを続けていれば、考え続ける機会がおおいほうが
かかりにくいのではないかという希望的な、安易な観測を持っていたがそうではない。
たとえ日記をつけ続けていても、
たとえ講演会活動など、緊張感のある時間を過ごしていたとしても。
だれもが可能性がある。
そういう意味で、平等にやってくるのだな。社会的なというより生物的なというか。
こちらも。(まったく同じ表現ではなかったかもしれないが、)
認知症とは余計なものをそぎ落としてくれる
当然良い面ばかりではなく失われるものも大きいだろうが、娘さんが言っていた、「感情表現が豊かであった、人を喜ばせようとするところは変わらない」というのもつながる。その人の人格、その人らしさが失われるわけではないということだ。
でも、まりさんが「そう思えるようになった」と付け加えていた部分もポイントだと思う。たぶん、周りはその人の「変化」(前できていたのにできなくなったこと、マイナス面)にとらわれがち。周りがどう向き合っていけるか。
まりさんはまた、「せっかくそれまでの人生でうまくいってきたのに、医師として間違ったことを言ってしまうかもしれない、尊厳を失ってしまうことになるかもしれない」(というようなこと)も心配していた。そうであっても、先生の意思を、人生を尊重したんだろう。
このようなテレビ取材に応じてくれて本当にありがたいと思う。
認知症について知り、考え、そして人生をどのように歩むか機会を与えてくれる。
研究を世に貢献する大きな一つのかたち。
ヤングアメンリカンズのワークショップ1日目@日本橋
じぶん未来クラブの方のご紹介で、昨日、初めて初日の見学に行ってきました。
概要の説明は譲るとして・・・
パフォーマンス団のイントロを初めて見た子供たちはどんな気持ちになるだろう?
今回参加した100人くらいかな?
今回のワークショップが初めてだったのは少数派(多分4分の1くらい?)
だったけど、かなり圧倒されるのではないか。
目の前には、国籍の違う白人のお姉さん+お兄さんたち、周りもしらない人だらけ。
何をするのかいまいちわからない不安、緊張、戸惑い・・・
そのなかで、イントロはこんな形で始まった。
参加した1人の少年が選ばれ、
「誰でも(ステージ上のパフォーマンスする若者たち)いいから声をかけて、
何かのジャンルの歌を歌って、とお願いして。誰でもいいからね」
と告げられる。
高校生くらいの少年は戸惑いながら、中心にいる女性に向かって、
「JPOPで」と伝える。
そもそもアメリカ出身の女性はJPOPをご存知なのかしら、との心配はなんのその。
めちゃくちゃ圧巻の声量で「パプリカ」熱唱が始まった。(選曲もばっちり)
そして、こちらが意図しない間隔で別の人がまた別の曲を歌いだす。
それが10人くらいリレーになって続いていく。
ダンスも合わさって大盛り上がりでフィニッシュ。
単純にみんな本当に歌がうまい。
表情や体をつかっての表現も豊かで、とっても楽しそう。
視覚や聴覚からだけでなく、まさに空気から歌が響いてくる感じ。
五感で圧倒される。
こんなに生で、心身を揺さぶられる音楽・歌を聴くのは久しぶりだった。
もしかすると人生初めてかも。うれしいのか、感動なのかはわからないけれど、
とにかく圧倒された。まさに感極まって涙がこぼれた。
そのあとは、グループに分かれてショーの準備が始まった。
でも明らかに、下を向き、輪に入れない子が・・・
うちの子もそうなるよ・・・
ほかの子の多くは、ダンス経験者なのか、みんなうますぎるよ。ノリよすぎだよ。
さて、3日目のショーで、子どもたちがどんなものを見せてくれるのか、
とても楽しみです。
生きること
相模原障害者殺傷事件をきっかけにブログを書いて、
思い出したこの本。もう一度読み返した。
「生きるってすばらしい。生きているだけで価値がある」
と言いたくてこの本を書いたそう。
確かに、「生きる」が語られる文脈はたいてい、社会と結びついている。
だから役に立つだの、立たないだの、軸でとらえようとしてしまうのかもしれない。
でも社会がどうかなんて関係ない。
もっともっと究極的に広い概念で、宇宙のために
生きていることが役に立っているのだ、と主張する。
というより、生まれたときから宇宙の一部になっていて役に立つことが決まっているというのか。
だから生きなければならないと。
そういわれてもね、という感想もあるかもしれないが、
こういうとらえ方もあっていいんじゃないかと思う。
自分はすんなり入ってきた。社会と結びつけて考えないというのがいいのかもしれない。
同じ日に、栄光学園&花まる学習会で指導する井本先生の「プロフェッショナル」
を見た。
そのままでダメなはずがない。
信念が詰まった言葉の一つ。これが本心で、どの子どもたちに対しても言えたら
本当に最高だなと思う。
でもそんな井本先生でさえ、揺らぐときがあると。
だから、後天的に学ぶ、何度も繰り返して身に付けるものなのかもしれない。
相模原障害者殺傷事件で考える。生きる価値とは
きっとこの事件について、表立って被告に賛成する人なんていない。
被告のしたことは断じて許されないと言うだろう。
障害者の人たちも生きる権利がある、どんな命も平等だと。
実家に帰省して、90歳以上になって子どもに世話になりながら生きながらえている祖母を見て、こう思うことがある。自分はずっと役に立つ存在でありたいと。
これは、暗に優性思想に立っているんじゃないかと気づく。
役に立つ存在 > 役に立たない存在。
本当にどんな命も、平等に、ただただ生きる権利があると言えるのか。
同じ尊厳を持っていると言えるのか。
意識としては言いたい。でも心の底には、隠したいけれどそれに反するような気持ちが渦巻いている。
どんな子も、どんな人間も生きる価値がある、本心から言えるように考えたい。
人材育成 と 経営
「「人材育成」は経営の大きなテーマです。」
本日とある経営者の方がおっしゃってました。
この言葉は適切なのかどうか。
適切か、というよりも、この言葉を発した人の意図は
どこにあるのか、というのが問題かもしれない。
だって、「人材育成」が「経営の大きなテーマ」でないわけないんですよ。
だってだって、人材育成ってものは、経営を進める上での手段なわけで、
人材育成で目指すものは、経営目標の達成なわけです、本質的には。
経営してたら、人材育成はそりゃするよね、という話。
人材育成しないで経営できるの?
一体不可分なものなんですから。
なぜ冒頭の言葉が出るかというと、
「人材育成側」にも問題があるかもしれない。
経営目標を達成するのが「人材育成」というものになっていないから。
できていないから。
とりあえず毎年研修をやる=人材育成、みたいな通念が
まかり通っているから。それが許されている。
でもそれではいけない。機械が人間の仕事に入り込んでくるであろう
今後はますますいけない。
ってことは、ええっとどこに書いてあったか、何かの本に書いてあったような。
ますます経営=人材をどう育て、活かしていくか、になるよと。
「人材育成側」ももっと変わらなければ。